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12月28日は何があった日?

1321年(元亨元年)の今日、後醍醐天皇が父・後宇多法皇の院政を廃して親政を敷きました。太平記等で有名な後醍醐天皇に比べて後宇多法皇は一般的には認知度が低いようですが、中世の日本最高の賢帝の一人と言われ、対立する花園天皇からも「末代の英主」と称えられました。

12月21日は何があった日?

1185年(文治元年)の今日、朝廷が源頼朝に対して諸国への守護と地頭の設置および任免を許可しました。朝廷に勅許の申請をしたのは北条時政(画像)で当初の理由は逃亡中の源義経たちを捕まえる為だったとか。これにより鎌倉幕府は名実ともに武士界の頂点に立ちました。

12月14日は何があった日?

1285年(弘安8年)の今日、鎌倉幕府の有力御家人だった安達氏一族が粛清されました。霜月騒動。この事件で幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し執権北条氏の配下である御家人たちの覇権が確立しました。

8月14日は何があった日?

1204年(元久元年)の今日、伊豆修善寺に幽閉中の源頼家が暗殺されました。鎌倉幕府2代将軍・頼家の後ろ盾になっていた比企氏と、彼の弟の実朝を次の将軍にしようとする北条氏が対立。結果、比企氏は滅亡し頼家は将軍職を剥奪されました。暗殺の犯人は北条氏のようです。

8月2日は何があった日?

1221年(承久3年)の今日、鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇(画像)が隠岐に流されました。承久の乱。当時、上皇は三人で、順徳上皇と土御門上皇も流され、皇子では雅成親王と頼仁親王が。さらに在位わずか3か月足らずの仲恭天皇(当時4歳)は廃位に、、と反幕府派の皇族は一掃。

4月22日は何があった日?

1212年(建暦2年)の今日、鴨長明が『方丈記』を書き上げました。本著は日本中世文学の代表的な随筆とされ『徒然草』『枕草子』とならび古典日本三大随筆の一つ。京の郊外に一丈四方(方丈)の小庵をむすんで隠棲した長明は鎌倉時代の当時の世間を観察して記録しました。

2月11日は何があった日?

1160年(平治2年)の今日、平家に追われる源義朝が家人に謀殺されました。恩賞目当てで裏切ったとされる長田忠致と景致。後に義朝の子として兵を挙げた源頼朝は彼らを許し軍に加えますが平家追討が済むと「父の仇」として処刑しました。

12月14日は何があった日?

1285年(弘安8年)の今日、鎌倉幕府の有力御家人・安達氏が平頼綱によって滅ばされました。源頼朝が没した後に始まった執権北条氏による有力御家人の粛正は終結。幕府創設以来の有力御家人は北条氏以外残らず排除され頼綱ら執権北条氏の御内人の覇権が確立しました。

8月26日は何があった日?

1308年(延慶元年)の今日、守邦親王が鎌倉幕府9代目にして最後の征夷大将軍に就任しました。幕府の実権は執権の北条氏(得宗家)が握っており将軍はあくまで名目的な存在でした。幕府滅亡の3か月後に薨去したと伝えられていますが真相は不明です。 #鎌倉幕府最後の将軍 #新歴史観ブックス

8月12日は何があった日?

1202年(建仁2年) の今日、源頼家が征夷大将軍に任ぜられました。父・頼朝の急死により18歳で家督を相続し三年後に将軍になった頼家。独善的な判断が御家人たちの反発を招き、十三人の有力御家人による合議制がしかれたとされています。就任から二年後に死去しました。

7月10日は何があった日?

1205年の今日、鎌倉幕府執権・北条時政が畠山重忠と彼の一族を討ちました。幕府創業の功臣であり、清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された重忠に謀反の疑いをかけて討伐した時政は、この一件で実子である義時と政子によって事実上、鎌倉から追放されました。

7月8日は何があった日?

1247年の今日、鎌倉幕府において第5代執権・北条時頼(画像)が三浦泰村とその一族を討ちました。宝治元年に起こったことで「宝治合戦」と呼ばれるこの戦いで有力な御家人である三浦氏が滅亡したことで北条氏による専制政治が確立しました。

6月24日は何があった日?

1333年の今日、武蔵国・久米川において新田義貞軍が鎌倉幕府の軍勢を破りました。後醍醐天皇の幕府討幕に呼応した義貞は実質的な関東方面の討幕軍の総大将として活躍。源氏棟梁である足利高氏の嫡男・千寿王(後の義詮)を旗頭にすることで関東の武家を軍に取り込みました。

6月22日は何があった日?

1360年の今日、北朝方の攻撃により南朝の実質的な総大将・楠木正儀の赤坂城が落城。軍神と言われた楠木正成の三男であり父と兄が死んだ後、楠木家の棟梁になった正儀は赤坂城が陥落した後も戦い続け、最終的には約56年間に及んだ南北朝の争いを終結へと導きました。

6月10日は何があった日?

1221年の今日、北条政子が鎌倉武士団に向かって団結を訴え演説しました。承久の乱。後鳥羽上皇は鎌倉幕府の事実上の最高権力者である北条義時を追討するよう武家に院宣を下しました。政子の演説は、武家政権=幕府が朝廷に比肩する立場になる上で大きな分岐点となりました。

4月18日は何があった日?

1268年の今日、北条時宗が鎌倉幕府8代執権に就任。執権は事実上の最高権力者。中華を制圧したモンゴル帝国(元朝)が日本に従属を迫る中、18歳で執権に就任した時宗は攻めてきた帝国軍を撃退。彼は神風を起こして国難を救った名君として第二次世界大戦時まで称えられました。

3月22日は何があった日?

1185年の今日、屋島にて源氏と平氏が戦いました。屋島は現在の香川県高松市にある残丘で、一ノ谷の戦いで大打撃を受けた平氏軍が体力を温存していた拠点。結局この地でも戦いに敗れた平氏の水軍は最後の地・壇之浦へと流れます。那須与一が扇の的を射たのが屋島です。

2月13日は何があった日?

1219年の今日、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁により暗殺されました。公暁の父親は第2代将軍だった源頼家。事件の背景には北条氏などの有力御家人の権力闘争があったとの説もありますが直接的な要因は公暁の将軍簒奪でした。公暁は即日殺されます。

1月20日は何があった日?

1226年(嘉禄元年)の今日、鎌倉幕府の執権・北条泰時が評定衆を設置しました。二代目将軍・源頼家の時に設置された十三人の合議制を原型とした最高政務機関です。この前年に、実質上の最高権力者だった北条政子と大江広元(画像)が死んだことが設置のきっかけだそうです。

12月21日は何があった日?

文治元年(1185年)の今日、源頼朝に文治の勅許が下されました。鎌倉に拠点を置いていた源頼朝に対して朝廷が日本諸国の守護・地頭職の設置と任免をする権限を与えました。これにより頼朝は名実共に全国の武家の棟梁となり鎌倉に武家政権が発足します。鎌倉幕府成立の一説。

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