
新歴史観ブックス
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12月5日は何があった日?
1695年(元禄8年10月29日) の今日、徳川綱吉(画像)により『生類憐れみの令』の一環として中野に16万坪の犬小屋が作られました。この結果、中野の住民が強制退去に。歴史教科書で悪法扱いされてきた生類憐れみの令ですが、1990年代末から再評価されるようになりました。

1695年(元禄8年10月29日) の今日、徳川綱吉(画像)により『生類憐れみの令』の一環として中野に16万坪の犬小屋が作られました。この結果、中野の住民が強制退去に。歴史教科書で悪法扱いされてきた生類憐れみの令ですが、1990年代末から再評価されるようになりました。

1884年(明治17年)の今日、元江戸幕府老中で鯖江藩主だった間部詮勝が死去しました。享年81。安政の大獄では大老の井伊直弼の右腕として多くの志士を粛清した間部ですが、その後、井伊直弼との権力争いの結果免職になり、不遇の人生を送ることに。

1859年(安政6年10月27日)の今日、伝馬町牢屋敷において長州藩の思想家・吉田松陰の死刑を執行されました。享年30。罪状は老中だった間部詮勝の暗殺を計画したこと。吉田松陰の死は長州藩の志士のみならず全国の志士に強い衝撃を与え尊王攘夷運動への起爆剤になりました。

1864年(元治元年7月19日) の今日、『禁門の変』が起こりました。京都から追放されていた長州藩勢力が京都守護職の松平容保らの排除を目的として挙兵。京都で市街戦を繰り広げました。京都中に火事が広がり約3万戸が焼失しました。

1615年(慶長20年閏6月13日)の今日、江戸幕府が二代将軍・徳川秀忠の名の下、『一国一城令』を発令しました。 諸大名に対し居城以外の城の破却を命じた法令。幕府に対する反乱や大名同士の戦争を封じることが目的でした。安土桃山時代に3000近くあった城郭が約170まで激減。

1610年(慶長15年6月13日)の今日、徳川家康(画像)の命令で京都の貿易商人だった田中勝介ら22名が鉱山技師を招くためにメキシコへ向けて出航しました。 田中勝介は名前が記録に残っている上で、初めて太平洋を横断、往復しアメリカ大陸に上陸した日本人、とされています。

1864年(元治元年6月5日) の今日、京都三条の旅籠・池田屋で会合を開いていた長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃しました。池田屋事件。志士たちが会合で話していた内容も新選組が襲撃した大義名分も未だに定かになっていません。

1770年(明和7年6月15日) の今日、浮世絵師・鈴木春信が死去しました。 現在では『浮世絵』として定番になっている木版多色摺りの錦絵を世に広めた人物。浮世絵黄金期の立役者として次代の浮世絵師に多大な影響を与えました。

1865年(慶応元年閏5月11日) の今日、土佐藩で勾留中だった土佐勤王党盟主・武市瑞山が切腹し死去しました。享年37。 武市は未だ誰もなしえなかったと言われてきた三文字割腹の法(腹を三度切る)をした後、前のめりに倒れ、両脇から二名の介錯人に心臓を突かせ絶命しました。

1641年(寛永18年5月17日) の今日、江戸幕府が平戸に駐在していたオランダ人を長崎の出島に移住させました。 出島は江戸幕府が外国貿易を規制する為に長崎に築造した日本初の本格的な人工島。明治以降は周辺を埋め立てたことで陸続きとなり扇形の面影は失われました。

1615年(元和元年5月6日)の今日、大坂夏の陣において豊臣方『大坂城五人衆』の一人に数えられた後藤基次が討死しました。享年56。 同じく大坂城五人衆の一人だった真田信繁と共に江戸時代から人気者だった後藤基次。講談や軍記が日本各地に広まり存命説も各地に残っています。

1866年(慶応2年)の今日、伊勢国荒神山で伊勢の吉五郎と穴太徳次郎の間で縄張り争いが起きました。後世「荒神山の喧嘩」と呼ばれたこの私闘。清水次郎長(画像)の兄弟分で吉五郎の助っ人を担った吉良の仁吉は喧嘩に勝利しましたが鉄砲で撃たれ斬られて死亡しました。

1861年(文久元年3月5日)の今日、浮世絵師の歌川国芳が死去しました。 迫力のある武者絵をはじめ現在でも人気の高い浮世絵師の一人・国芳。彼には多くの門弟がいました。「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や異色の絵師・河鍋暁斎も国芳の弟子だった時期があります。

1825年(文政8年2月21日)の今日、元大相撲力士の雷電爲右エ門が死去しました。59歳没。現役生活21年、江戸本場所在籍35場所(大関在位27場所)で通算黒星が10個。勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士。現役引退後は松江藩の相撲頭取に就任し後進の育成に尽力しました。

1790年(寛政2年2月19日)の今日、火付盗賊改役を務めていた「鬼平」こと長谷川宣以の建議により江戸石川島に人足寄場が設置されました。 人足寄場は無宿人や刑期を終えた浮浪人などを収容し大工、建具、塗物などの商業訓練を受けさせることで更生を促す施設でした。

1624年(寛永元年2月15日)の今日、猿若勘三郎(後の初代中村勘三郎)が江戸京橋に江戸における初の常設歌舞伎劇場となる猿若座(後の中村座)を開きました。これが江戸歌舞伎の始まりと言われています。現状の名跡の襲名は2012年に亡くなった十八代目中村勘三郎(画像)まで。

1657年(明暦3年1月18日)の今日、江戸において外堀内のほぼ全域、江戸城や大名屋敷などを含め市街地の大半を焼失する火事が発生しました。明暦の大火。 関東大震災と東京大空襲を除くと日本史上最大の火災。ローマ大火、ロンドン大火と合わせて「世界三大大火」とする場合も。

1858年(安政4年12月11日)の今日、陸奥盛岡藩の大島高任が釜石で日本初の近代的な商用高炉を建設しました。 大島は明治政府においても技術者として高く評価され鉱業界の第一人者として明治23年には日本鉱業会の初代会長に就任。「日本近代製鉄の父」と呼ばれました。

1865年(元治元年12月15日)の今日、長州藩士の高杉晋作ら諸隊が俗論派打倒のために功山寺でクーデターを起こしました。功山寺挙兵。 クーデターを成功させた晋作は逃亡していた桂小五郎を旗頭として藩に呼び戻し、長州藩を再び討幕を主導する藩へと建て直しました。...

1634年(寛永11年11月7日)の今日、亡き藩主の遺言を果たす為、渡辺数馬と荒木又右衛門が仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討ち取りました。 「鍵屋の辻の決闘」または「伊賀越の仇討ち」と呼ばれ、日本三大仇討ちの一つに数えられています。

