
新歴史観ブックス
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12月7日は何があった日?
1869年(明治2年11月5日)の今日、2か月前に刺客に襲撃され重傷を負っていた兵部大輔・大村益次郎が死去しました。臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ」と部下に言い遺した大村益次郎。予想は的中し数年後、西南戦争をはじめ士族の乱が多発。

1869年(明治2年11月5日)の今日、2か月前に刺客に襲撃され重傷を負っていた兵部大輔・大村益次郎が死去しました。臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ」と部下に言い遺した大村益次郎。予想は的中し数年後、西南戦争をはじめ士族の乱が多発。

1887年(明治20年)の今日、旧薩摩藩の指導者・島津久光が死去しました。明治政府は久光を最高級で遇しましたが西郷と大久保の死後は存在感を失った久光。最後まで「西郷、大久保に騙された」と言い続けたとか。

1884年(明治17年)の今日、元江戸幕府老中で鯖江藩主だった間部詮勝が死去しました。享年81。安政の大獄では大老の井伊直弼の右腕として多くの志士を粛清した間部ですが、その後、井伊直弼との権力争いの結果免職になり、不遇の人生を送ることに。

1859年(安政6年10月27日)の今日、伝馬町牢屋敷において長州藩の思想家・吉田松陰の死刑を執行されました。享年30。罪状は老中だった間部詮勝の暗殺を計画したこと。吉田松陰の死は長州藩の志士のみならず全国の志士に強い衝撃を与え尊王攘夷運動への起爆剤になりました。

1864年(元治元年7月19日) の今日、『禁門の変』が起こりました。京都から追放されていた長州藩勢力が京都守護職の松平容保らの排除を目的として挙兵。京都で市街戦を繰り広げました。京都中に火事が広がり約3万戸が焼失しました。

1864年(元治元年6月5日) の今日、京都三条の旅籠・池田屋で会合を開いていた長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃しました。池田屋事件。志士たちが会合で話していた内容も新選組が襲撃した大義名分も未だに定かになっていません。

1865年(慶応元年閏5月11日) の今日、土佐藩で勾留中だった土佐勤王党盟主・武市瑞山が切腹し死去しました。享年37。 武市は未だ誰もなしえなかったと言われてきた三文字割腹の法(腹を三度切る)をした後、前のめりに倒れ、両脇から二名の介錯人に心臓を突かせ絶命しました。

1866年(慶応2年)の今日、伊勢国荒神山で伊勢の吉五郎と穴太徳次郎の間で縄張り争いが起きました。後世「荒神山の喧嘩」と呼ばれたこの私闘。清水次郎長(画像)の兄弟分で吉五郎の助っ人を担った吉良の仁吉は喧嘩に勝利しましたが鉄砲で撃たれ斬られて死亡しました。

1858年(安政4年12月11日)の今日、陸奥盛岡藩の大島高任が釜石で日本初の近代的な商用高炉を建設しました。 大島は明治政府においても技術者として高く評価され鉱業界の第一人者として明治23年には日本鉱業会の初代会長に就任。「日本近代製鉄の父」と呼ばれました。

1865年(元治元年12月15日)の今日、長州藩士の高杉晋作ら諸隊が俗論派打倒のために功山寺でクーデターを起こしました。功山寺挙兵。 クーデターを成功させた晋作は逃亡していた桂小五郎を旗頭として藩に呼び戻し、長州藩を再び討幕を主導する藩へと建て直しました。...

1864年(元治元年7月16日)の今日、幕末の幕臣で直心影流の剣士・男谷信友が死去しました。享年67。実力の高さと温厚な人格から「幕末の剣聖」と呼ばれた男谷はまちまちであった竹刀の全長を3尺8寸に定める等、現代の剣道に大きな影響を与えました。

1853年(嘉永6年6月3日) の今日、アメリカ合衆国大統領フィルモアの開国を促す親書を携えたマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の東インド艦隊艦船4隻が江戸湾浦賀湾に来航しました。「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」 ◇口冊司作品はこちら>>...

1868年(慶応4年) の今日、維新軍と旧幕府軍が会談した結果、江戸総攻撃の中止と江戸城の開城が決定しました。従来は勝海舟と西郷隆盛の2人だけが面会したように描かれるこの会談。実際は会計奉行の大久保一翁や山岡鉄舟、維新軍側も村田新八と桐野利秋が同席していたとか。

2012年(平成24年)の今日、 東京スカイツリーが竣工しました。 2008年7月に着工し3年半の期間をかけて完成。ところで、約180年前の江戸時代、浮世絵師の歌川国芳が描いた『東都三ツ股の図』には現在スカイツリーが建っているのとほぼ同じ場所に謎の塔が描かれています。

1904年の今日、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』がミラノ・スカラ座で初演されました。 一説では蝶々夫人のモデルは長崎を拠点にしたイギリス商人グラバーの妻であるツル(画像)。彼女は揚羽蝶の紋付を好んで着用し「蝶々さん」と呼ばれたそうです。

1888年(明治21年)の今日、探検家の松浦武四郎が自宅で脳溢血により死去しました。 江戸幕府から蝦夷地の調査官に任命された武四郎は、北加伊道(後の北海道)という名前をはじめアイヌ語の地名を参考にして蝦夷各地の地名を考案しました。

1868年の今日(慶応3年12月9日)、 京都御所にて明治天皇(画像)より勅令が下されました。幕府と摂政関白の廃止、三職の設置、そして諸事神武創業に基づき公議をつくすことが宣言されました。俗に「王政復古の大号令」と呼ばれたこの勅令により明治政府が樹立されます。

1867年(慶応3年11月15日)の今日、京都の醤油商・近江屋の私邸に潜伏していた坂本龍馬と訪問していた中岡慎太郎が何者かに襲撃されました。龍馬は即死、中岡は2日後に死亡。実行犯は京都見廻組というのが定説になっていますが真相はいまだに藪の中です。

1859年(安政6年10月7日)の今日、反幕府思想を持つとされ逮捕されていた土浦藩士の飯泉喜内、儒学者の頼三樹三郎、福井藩士の橋本左内が収容先の江戸伝馬町牢屋敷で斬首されました。安政の大獄。とりわけ、橋本左内(画像)は当時の知識人から評価の高い人物でした。

1861年(文久元年5月28日) の今日、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃しました。標的だったイギリス公使は逃げられたものの、警備兵が2名死亡しました。画像は当時のイギリス新聞に掲載されたもの。乗馬用の鞭で反撃しています。

