
新歴史観ブックス
2021年11月11日読了時間: 1分
11月10日は何があった日?
1614年(慶長19年)の今日、真田信繁が豊臣軍の将として大坂城に入りました。徳川家康との決戦に臨む豊臣氏は江戸幕府に従う大名の加勢が期待できない為、関ヶ原の戦い後、浪人になった者たちを集めることに。九度山で隠居していた信繁には黄金200枚と銀30貫が。

1614年(慶長19年)の今日、真田信繁が豊臣軍の将として大坂城に入りました。徳川家康との決戦に臨む豊臣氏は江戸幕府に従う大名の加勢が期待できない為、関ヶ原の戦い後、浪人になった者たちを集めることに。九度山で隠居していた信繁には黄金200枚と銀30貫が。

1716年(享保元年)の今日、江戸幕府の役職として「御庭番」が新設されました。御庭番とは将軍・徳川吉宗の直轄で諜報活動を行った隠密部隊。将軍就任前、吉宗が藩主を務めた紀州藩から連れて来た17名が最初の御庭番とされ、世襲によって代々引き継がれました。

1757年(宝暦7年)の今日、柄井川柳が「川柳評万句合」を初めて開催しました。川柳の発祥の日とされています。本名・柄井正通は「無名庵川柳」として江戸時代中期の前句付けの点者として名を馳せ、一句で意味が分かる一句立ちの句が「川柳」と呼ばれるようになりました。

1863年(文久3年)の今日、「八月十八日の政変」が起きました。幕府主導の交渉による外国との通商条約破棄を推進する会津・淀・薩摩の藩兵が禁裏六門を封鎖。過激派主導の攘夷戦争を進める長州藩を排除すると共に三条実美(画像)ら過激な攘夷公家を追放しました。七卿落ち。

1828年(文政11年)の今日、オランダ商館付の医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが幕府禁制品の日本地図などを持ち出そうとしたことが発覚し追放されました。が、彼は多くの標本を持ち帰り、それらが西洋における日本学の発展に大きく寄与したとか。

1651年(慶安4年)の今日、兵学者の由井正雪らの幕府顛覆計画が発覚しました。慶安の変。江戸幕府第3代将軍徳川家光の死を契機として由井正雪は幕府転覆を計画。しかし決起の寸前になって密告され町奉行の探索方に囲まれた正雪は自害しました。

1615年(元和元年)の今日、江戸幕府が武家諸法度を発布しました。通称「元和令」と呼ばれ、徳川家康が諸大名の統制のために制定したもので対象は大名のみ。幕臣については『諸士法度』で規定され、後に第五代将軍の綱吉が改定した「天和令」にて統合されました。

1615年(慶長20年)の今日、江戸幕府が一国一城令を発令しました。諸大名に対して居城以外の全ての城の破却を命じました。目的は特に西国諸大名の軍事力を削減するためで数日のうちに約400の城が壊されたそうな。発令されたのは大坂の陣の直後で、発案者は徳川家康ご自身。

1867年(慶応3年)の今日、薩摩藩と土佐藩が薩土盟約を締結しました。土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎が主導した同盟。大政奉還により武力倒幕を原則回避する方針を固めた協定でしたが土佐藩の約束不履行により3か月程で解消。さらにその3か月後、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺。

1863年(文久3年)の今日、長州藩の高杉晋作らが奇兵隊を結成しました。奇兵隊の隊員は農民や町人ら志願兵でした。結成から三か月後、奇兵隊は藩士から成る藩の正規部隊である撰鋒隊と刃傷沙汰を起こし、責任を問われた晋作は総監を罷免されてしまいましたとさ。

1864年(元治元年)の今日、京都の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩、土佐藩などの志士が新選組に襲撃されました。新選組の報告では、志士たちは京都に火を放ち、要人を幽閉または暗殺し天皇を長州に連れ去る計画をしていたとか。真相は不明で、新選組の捏造という噂も。

1605年(慶長10年)の今日、織田秀信が高野山から追放されました。織田信長の嫡孫である秀信は関ヶ原の戦いにおいて西軍についたことで改易となり高野山へ。しかし、信長の高野山攻めが仇となり当初は入山が許されなかったうえ入山後も迫害を受けました。追放の理由は不明。

1669年(寛文9年)の今日、アイヌ民族が一斉蜂起。シャクシャインの戦い。元々はアイヌ部族同士の漁猟権をめぐる長年の抗争。その仲介に入った松前藩によって部族長が毒殺されたという誤報が出回ったことでアイヌ人の憎悪が高まり、結果、江戸幕府との戦いに発展しました。

1716年(享保元年) の今日、江戸幕府より五街道として『東海道』『中山道』『日光道中』『奥州道中』『甲州道中』が正式名称として布達されました。徳川家康が江戸を拠点に全国を支配する為に整備を開始。秀忠の代になり、江戸の日本橋が起点となり五街道が定められました。

1701年(元禄14年)の今日、赤穂藩の藩主・浅野長矩が起こした事件(吉良上野介を襲撃)により赤穂城が幕府に明け渡されました。 ちなみに当時の将軍である徳川綱吉に改易された大名は40人。これは家康(91人)家光(69人)秀忠(53人)に次ぐ第四位。粛清されしは外様大名。

1729年(享保14年)の今日、将軍徳川吉宗の子を称した山伏の天一坊改行が幕府に処刑されました。天一坊の下には職にありつけるのを期待した大勢の浪人が集まっていたことから勘定奉行の稲生正武は厳しく処断することを決断したとか。実際に吉宗の実子かと否かは藪の中。

1657年(明暦3年)の今日、徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手しました。初代・神武天皇から100代・後小松天皇までの時代の歴史が記述され、完成は250年後の1906年(明治39年)。大日本史の基礎的な思想である「水戸学」は幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

1863年(文久3年)の今日、等持院に安置されていた室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が尊皇志士の手で持ち出された上、賀茂川の三条河原に晒されました。倒幕を示唆した行動として激怒した京都守護職松平容保は京都の治安強化に乗り出します。

1624年(寛永元年)の今日、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が江戸京橋に猿若座(後の中村座)を開きました。江戸歌舞伎の始まりです。狂言師である兄の中村勘次郎らと大蔵流狂言を学んだ経験を生かして舞踊『猿若』を創作したといわれています。

1703年(元禄15年)の今日、旧赤穂藩の浪士が高家旗本の吉良義央を討ち取りました。旧暦では12月15日。討ち入りをした赤穂浪士が武士としては最高の処分である切腹になった反面、被害者である吉良家の方は領地を幕府に取り上げられたうえ息子・義周を最後にお家断絶。