
新歴史観ブックス
2020年2月9日読了時間: 1分
2月8日は何があった日?
1567年の今日、松平家康が徳川姓に改姓し従五位下三河守に叙任されました。三河を統一し朝廷に三河守の叙任を申請するも由緒正しい家でないからと却下された家康は、松平家は清和源氏新田氏の流れを汲む得川氏の末裔であると主張しました。「得」を嘉字である「徳」に変更して徳川。

1567年の今日、松平家康が徳川姓に改姓し従五位下三河守に叙任されました。三河を統一し朝廷に三河守の叙任を申請するも由緒正しい家でないからと却下された家康は、松平家は清和源氏新田氏の流れを汲む得川氏の末裔であると主張しました。「得」を嘉字である「徳」に変更して徳川。

1597年の今日、豊臣秀吉の命令により26人のカトリック信者が長崎で磔刑に処されました。処刑の理由として宗教弾圧の他に、九州のキリシタン大名の結束への警戒やポルトガル人の奴隷貿易への反感などが挙げられています。26人は後にカトリック教会により聖人とされました。

1598年(慶長2年)の今日、朝鮮において蔚山城の戦いが開戦。日本の最権力者・豊臣秀吉の指示で敢行された朝鮮出兵。その二度目の出兵における戦い。加藤清正の指揮の下、蔚山城に籠る日本軍に攻めかかる明・朝鮮連合軍。援軍の到着により日本軍はどうにか勝利しました。

1549年(天文17年)の今日、長尾景虎が長尾家の当主として春日山城へ入城。後の上杉謙信。長尾家は越後守護・上杉家に仕える守護代の家。15歳の初陣では当時、当主だった兄・晴景に代わり総大将として反乱軍と戦い、見事に反乱軍を鎮圧。その四年後、兄から家督を奪う形で当主になりました。

1586年(天正14年)の今日、天正越中地震が発生しました。近畿、東海、北陸と広い範囲に被害を与え震源地もいまだ判明していません。飛騨国の帰雲城とその城下町は山崩れによって埋没するなど、多くの城が倒壊し戦国時代の趨勢にも大きく影響しました。帰雲城の城主である内ヶ島氏は一族を集めて

1585年(天正13年)の今日、徳川家の将だった石川数正が豊臣秀吉に寝返りました。家康と秀吉は小牧長久手の戦いを終えても緊張状態。徳川軍団の副大将的な存在だった数正が秀吉に寝返ったことで家康は軍政の変更を余儀なくされます。徳川軍が武田流になったのはこの時から。

1477年(文明9年)の今日、大内政弘が周防国に撤兵。応仁の乱が事実上終結しました。最盛期には中国地方の西部から九州地方の北部に大版図を築いた大内政弘。応仁の乱では西軍側の主力として参戦しました。のちに戦国時代の幕開けとされる応仁の乱は約11年間続きました。

1557年(弘治3年)の今日、織田信長が弟・信勝を謀殺しました。信行という名でも知られる信長の同母弟で兄と違い幼い頃から礼儀正しい人だったと言われる信勝。父の死後、当主になった信長に逆らい、自らが当主であると宣言。尾張国の統一に挑む信長にとって信勝は最大の敵になったのです。

1578年(天正6年)の今日、荒木村重が織田信長に謀反を起こしました。知らせを聞いた信長は村重(画像)を厚く信頼していたため、初めは報告を信じなかったそうです。村重は逃亡の生き延びましたが有岡城に残された122人の女房衆は全員処刑。村重は豊臣秀吉の時代に茶人になりましたとさ。

慶長19年(1614年)の今日、真田信繁が九度山を脱出し大坂城へ入城。 豊臣家と徳川家の最後の戦いである大坂の陣。合戦の結果、豊臣家は炎上する大坂城と共に滅亡しました。侍大将の一人として戦った真田信繁(画像)。遅咲きの将である彼はこの負け戦によりその名を歴史に刻みます。

1598年(慶長3年)の今日、朝鮮半島で慶長の役・泗川の戦いが起こりました。日本軍の島津義弘(画像)率いる約七千の薩摩兵が、朝鮮と明の連合軍約五万を撃退。島津義弘は朝鮮だけでなく明にまで鳴り響き、「鬼石蔓子」と呼ばれ、恐れられたとのこと。ちなみに日本軍はこの後すぐに朝鮮から撤退。

1600年(慶長5年)の今日、関ヶ原の戦いが起こりました。およそ180年続いた戦国時代の集大成であり天下分け目の戦いと呼ばれるこの戦いは予想より短く、半日ほどで終わります。結果は徳川の東軍が豊臣の西軍に大勝。この三年後、江戸幕府が発足します。

1600年(慶長5年)の今日、大津城の戦いが始まりました。大津城の城主・京極高次の指揮のもと籠城する東軍3,000と攻城する西軍15,000。西軍の大将の一人にはあの立花宗茂も。しかし予想外にも京極軍は8日間も持ちこたえ、開城したのは関ヶ原の戦いの当日に。結局、15,000の兵は

1579年(天正7年)の今日、織田信雄が伊賀国の伊賀郷士衆を攻めました。信雄は織田信長の息子であり、政略結婚で義父になった北畠具教を暗殺して伊勢国を我が物にしたばかり。 信長に無断で伊賀忍者を掃討しようとした信雄は甚大な被害を受けて伊賀から撤退します。 この二年後、信長自ら息子の

1571年(元亀2年)の今日、織田信長が比叡山の焼き討ちを決行しました。比叡山延暦寺の門徒が信長の勧告を無視して武装解除を拒否したのが直接の原因とされています。被害情報については諸説あり。平安時代から一大勢力を誇った延暦寺の僧兵は歴史の表舞台から姿を消しました。

1543年(天文十二年)の今日、種子島に異国の大型船が来着。百人ほどの乗客のうちポルトガルの商人二人と中国の儒学生一人が日本の戦国史を大きく動かすことになります。種子島銃が生まれただけでなく浜辺を使った筆談が事実上、南蛮貿易の始まりなのでした。諸説あるので鉄砲の伝来とはあえて言い

1580年(天正八年)の今日、織田信長が佐久間信盛に対して折檻状を送った上で追放しました。織田家の有力家臣は?と問われて滅多に名前の出ない佐久間信盛。実は筆頭家老であり、最大規模の軍団を率いた織田家の副将格でした。折檻状とは勤務態度についてのダメ出しです。それを十七条も。戦国時代

1567年(永禄十年)の今日、織田信長が元稲葉山城の縄張りに新たに造営した城を「岐阜城」と名付けました。古代中国で殷から周に変わろうとする時、鳳凰が舞い降りたという「岐山」と孔子の出身地「曲阜」が由来とのこと。信長が同時期から「天下布武」の朱印を使い始めたことから、天下取り宣言の

1573年(天正元年)の今日、刀根坂の戦いが起こりました。織田信長vs朝倉義景。この戦いで多くの重臣を失った朝倉軍はもう挽回不可能に陥ります。また、朝倉軍に参加していた斎藤龍興が戦死したことで斎藤道三の死以来続いていた斎藤家と織田家との争いもようやく終わりを迎えました。諦めが悪く

1600年(慶長五年)の今日、小山評定が行われました。 上杉討伐のため会津に進軍中の徳川家康が京都で石田三成の挙兵を知り会議を開いたのが小山。 家康は三成討伐のため西へ引き返すことを大名たちへ伝えます。 ここで大名たちは今後の身の振り方を決断するのです。徳川家 or 豊臣家