
新歴史観ブックス
2021年8月18日読了時間: 1分
8月18日は何があった日?
1541年(天文10年)の今日、 肥後国に漂着したポルトガル人が領主の大友宗麟にカボチャの種を贈りました。このカボチャは「宗麟かぼちゃ」と名づけられ大分県などで伝統的に栽培されているそうです。大友宗麟には『ドン・フランシスコ』という洗礼名があります。

1541年(天文10年)の今日、 肥後国に漂着したポルトガル人が領主の大友宗麟にカボチャの種を贈りました。このカボチャは「宗麟かぼちゃ」と名づけられ大分県などで伝統的に栽培されているそうです。大友宗麟には『ドン・フランシスコ』という洗礼名があります。

1575年(天正3年)の今日、三河国長篠城をめぐり織田・徳川連合軍と武田勝頼の軍勢が戦いました。長篠の戦い。敗れた武田家は信玄時代の重臣を多数失った一方で、勝利した信長は石山本願寺とも和睦し反信長勢力を屈服させ「天下人」となり、家康は三河の実権を完全に掌握。

1560年(永禄3年)の今日、桶狭間の戦いが起こりました。大軍を率いて尾張に侵攻した今川軍に対して尾張の織田軍が本陣を奇襲。「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元が討ち取られました。この勝利で織田信長は尾張を統一したうえ畿内制圧に乗り出します。

1591年(天正19年)の今日、豊臣秀吉の逆鱗に触れた千利休が堺に蟄居するよう命じられました。15日後、利休は切腹を命じられます。その理由には諸説あり、利休が修行していた南宗寺と繋がりのある徳川家康から命じられ、茶湯に入れた毒で秀吉を暗殺しようとしたという説も。

1585年(天正13年)の今日、天正遣欧少年使節がローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しました。使節団が持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われることに。さらに彼らは西洋楽器も持ち帰り、豊臣秀吉の前で演奏したとか。

1573年(元亀3年)の今日、遠江国の三方ヶ原で武田信玄率いる軍が徳川・織田連合軍を破りました。当初、信玄は徳川軍を浜松城から誘い出す為、あえて浜松城を素通りするように進軍。挑発に乗った家康は城を出ると、これを待ち構えていた信玄に打ち負かされました。

1549年(天文17年)の今日、長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぎ春日山城へ入城しました。景虎はこの時18歳。三条長尾家の当主になると同時に越後国の守護代となり、二年後には将軍から越後国の国主としての地位を認められ、さらに翌年には乱を鎮圧し越後を統一しました。

1586年(天正13年)の今日、中部地方で発生した巨大地震により飛騨国にあった帰雲城と城下町が埋没しました。天正の大地震。帰雲城城内では祝宴が行なわれ城主である内ヶ島一族の全員が死亡。城下では家300戸以上と五百人以上の民が土砂に埋まり亡くなったとされています。

1535年(天文4年)の今日、松平清康が在陣中、家臣に暗殺されました。松平清康は徳川家康の祖父。岡崎を征服したうえ西三河を支配下におきました。享年25歳。清康殺害に使われた刀は「千子村正」とされ、村正が徳川家に仇なす妖刀、という伝説が作られる基になったとか。

1655年(明暦元年)の今日、宇喜多秀家が死去しました。享年84歳。 関ヶ原の戦いに敗れた西軍の指揮官の一人として知られる彼は敗戦後も生き延び、日本史上初の八丈島の流刑者に。やがて罪を解かれ大名に復帰する選択肢もありましたが彼は八丈島で余生を全うしました。

1557年(弘治3年)の今日、毛利元就が三人の息子たちへ教訓状を記しました。「三本の矢」の逸話の由来。老齢になった元就が嫡男・隆元、次男・元春、三男・隆景に向けて書き送った14条の教訓。元就の残した書はどれも長文で知られていますが、この書の紙の長さは約3mにも。

1629年(寛永6年)の今日、徳川家光の乳母・お福が後水尾天皇に拝謁し「春日局」の名号を賜りました。明智光秀の重臣として本能寺の変を起こした斎藤利三を父に持つ彼女は朝廷との交渉の前面に立ち、女性政治家として徳川政権の安定化に大きく貢献しました。

1598年(慶長3年)の今日、朝鮮泗川城において島津義弘率いる軍1万5千が明・朝鮮連合軍10万を撃破しました。宗軍や立花軍からの援軍を義弘は断り島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃ち、奇襲によって明・朝鮮軍の食料庫を焼失したことが大きな決め手に。

1600年(慶長5年9月15日)の今日、毛利輝元を総大将とする反徳川の西軍と徳川家康を総大将とする東軍が関ヶ原において「天下分け目の戦い」を繰り広げました。関ヶ原の戦い。 多くの逸話を残したこの戦いの三年後、勝者である徳川家康は征夷大将軍となり幕府を樹立します。 #天下分け目の戦

1597年(慶長2年)の今日、室町幕府最後の将軍・足利義昭が死去しました。織田信長により京都を追放された義昭でしたが、将軍職を退いたのは信長の死から6年後のこと。将軍として豊臣秀吉と島津義久の和睦を斡旋しました。退位後は秀吉の相談役(御伽衆)の立場に。

1569年(永禄12年)の今日、立花誾千代が誕生しました。 戦国時代、九州大分を本拠とした大友氏の有力家臣・立花道雪の一人娘。 名前の「誾」は「慎み人の話を聞く」という意味。男子がいなかった為、誾千代は道雪の後継者として育ち、戦国時代屈指の女武将に。 #戦国時代の女武将 #新歴史

1574年(天正2年)の今日、越前国(現在の福井県)で起きていた一揆は一揆勢の勝利に終わり、越前国は「百姓の持ちたる国」になりました。織田信長が朝倉家を討滅した後の出来事。当初は旧朝倉家家臣と村民による土一揆でしたが、本願寺が加わったことで一向一揆に拡大。

1585年(天正13年)の今日、長宗我部元親が降伏したことで豊臣秀吉による四国平定が完了。土佐の一国人から土佐一国を統一する戦国大名に成長し、さらに四国全土に勢力を広げた元親。彼の四国制覇をギリギリのところで止めたのは織田信長でした。

1582年(天正10年)の今日、羽柴秀吉が近江で検地を行いました。これが初めての太閤検地とされています。秀吉が太閤になった天正19年以前に行われた検地も含めて「太閤検地」と呼ばれています。近江検地は織田信長が本能寺で死んだ約一ヶ月後に行われました。

1582年の今日、清洲会議が開かれ羽柴秀吉が推す三法師が織田家の当主になることが決まりました。三法師(画像)は、織田信長と同じく明智軍に攻められ京都で戦死した織田信忠の嫡男です。この会議により秀吉は事実上、織田家の筆頭家老になり織田家は秀吉に掌握されます。