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2月26日は何があった日?

1550年(天文19年)の今日、豊後を支配する大友家で当主の大友義鑑と側室の母子が襲撃され、母子は即死、義鑑も2日後に死亡しました。二階崩れの変。正室の子の義鎮(画像)を廃嫡し側室の子を後継者にしたい大友義鑑が義鎮を支持する重臣を次々に誅殺したことで起きた事件。

2月18日は何があった日?

1582年(天正10年)の今日、かつて織田家の重臣で追放になっていた佐久間信盛が死去しました。信盛は約30年もの間、織田家の筆頭家老として家臣団を率いましたが信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ追放されました。信長が本能寺で急死するのはこの約5ヶ月後。

2月8日は何があった日?

1567年(永禄9年)の今日、松平家康が徳川姓を名乗ることを朝廷から許され「徳川家康」に改名しました。「徳川氏」の本来の漢字は「得川氏」。清和源氏新田氏の一族で新田荘得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫にしました。家康は「得川氏」の末裔を称しました。

1月28日は何があった日?

1549年(天文17年)の今日、長尾景虎(後の上杉謙信)が家督を継ぎ春日山城に入城しました。後世「越後の龍」などと呼ばれ戦上手として知られる景虎ですが、15歳の元服したばかりの時には、若い景虎を侮り反乱を起こした越後の豪族に対して見事な戦術で打ち負かしました。

1月25日は何があった日?

1573年(元亀3年)の今日、遠江国の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市内)で武田信玄と徳川家康の軍が戦い、武田軍が勝利しました。武田軍の死傷者およそ200人に対し徳川軍は重臣を含めて2,000人もの兵士を失いましたが、本多忠勝などの奮戦により家康は辛うじて死を免れました。

1月11日は何があった日?

1547年(天文15年)の今日、足利義藤(後の義輝)が近江坂本の地で第13代征夷大将軍に就任しました。わずか11歳で元服と同時に将軍となった義藤。宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で彼のことを「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評価しています。

12月29日は何があった日?

1535年(天文4年)の今日、織田信秀が支配する尾張に侵攻した松平清康が野営中に家臣によって暗殺されました。享年25。徳川家康の祖父である清康は岡崎を征服し一族と重臣を掌握、西三河を支配しました。暗殺時に使われた刀が「千子村正」とされ「妖刀村正」伝説の由来に。

11月19日は何があった日?

1577年(天正5年)の今日、松永久秀が死去しました。享年68歳。主君である信長に反旗を翻した久秀に信長は10万の軍勢を送り込み彼の居城を包囲。久秀は天下の名器とされた茶釜『平蜘蛛』を叩き割り天守に火をかけて自害しました。茶釜と共に爆死したのは創作です。

11月5日は何があった日?

1517年(永正14年)の今日、安芸武田家の当主で自ら兵を率いた武田元繁が毛利・吉川連合軍との合戦で討ち死にしました。智勇に優れ中国の項羽と並ぶ武勇の持ち主と恐れられた元繁でしたが、まだ毛利家の当主の後見役という立場だった毛利元就(画像)の用兵に敗れました。

10月29日は何があった日?

1538年(天文7年)の今日、下総国国府台で小田原の北条氏綱と戦っていた小弓公方・足利義明が討ち死にしました。次第に劣勢となる中、弟の基頼、嫡男の義純が討ち死にした報を耳にした義明は憤怒して氏綱軍に突撃。小弓公方は次男の頼純に引き継がれ後の喜連川藩へと。

7月7日は何があった日?

1541年(天文10年)の今日、武田晴信(後の信玄)が父・信虎(画像)を甲斐から追放しました。追放の理由は諸説ありますが、いずれにせよ晴信や彼を支持する家臣団と信虎との関係は悪化しており、戦争好きの信虎に重い負担を課せられていた領民は追放を歓迎したとか。

6月22日は何があった日?

1582年(天正10年)の今日、魚津城を守っていた上杉家の家臣・中条景泰が柴田勝家率いる織田軍に攻められ、切腹し開城しました。しかし、この一日前に信長は本能寺にて死亡。勝利にわいていた織田軍は四散し、空城になった魚津城を上杉軍が奪還。

6月21日は何があった日?

1582年(天正10年6月2日)の今日、明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃しました。織田信長は自害したといわれていますが死体は見つからず、不安になる光秀を見るに見かねた家臣の斎藤利三が「信長が炎上する建物奥に入っていくのを見た」と報告したそうです。

6月17日は何があった日?

1565年(永禄8年)の今日、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らが室町幕府13代将軍である足利義輝を襲撃し殺害しました。永禄の変。剣豪の塚原卜伝に兵法を学んだ義輝は約百人の家臣と共に自ら奮戦しましたが約一万人の敵兵を前に自害しました。

6月14日は何があった日?

1583年(天正11年)の今日、秀吉軍に居城である北ノ庄城を包囲された柴田勝家と妻のお市の方、その他80名余が自害しました。勝家から退去を勧められた市は共に自決することを選び、三人の娘(茶々、初、江)を秀吉に託すことに。秀吉の側室になった茶々は「淀殿」と呼ばれ、

6月13日は何があった日?

1587年(天正15年)の今日、九州平定間近だった島津義久が豊臣秀吉に降伏しました。義久の降伏後、島津四兄弟のうち次弟の義弘と三弟の歳久は城に籠り抵抗を続け、義弘の降伏後も歳久だけは秀吉に反抗し続け、結局、義久は歳久を粛正することに。歳久は自害しました。

6月12日は何があった日?

1560年(永禄3年)の今日、織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取りました。指を噛み千切られながらも義元の首を討ち取った毛利新介は「本能寺の変」で二条新御所にて闘死するまで信長の側近として重用されました。

6月3日は何があった日?

1570年(元亀元年)の今日、越前の朝倉義景討伐のため進軍していた織田信長が同盟関係にあった近江の浅井長政(画像)の裏切りにより撤退しました。裏切った理由については現在も定かになっておらず、報告を聞いた際、信長は義弟でもある長政の裏切りを信じなかったそうです。

6月1日は何があった日?

1569年(永禄12年)の今日、徳川軍に包囲された今川氏真が降伏し、戦国大名としての今川氏が滅亡しました。「海道一の弓取り」と呼ばれた父・今川義元の死から9年後のこと。その後、氏真は北条氏に庇護された後、徳川氏へと。今川氏は徳川幕府に仕え、明治まで続きました。

5月28日は何があった日?

1556年(弘治2年)の今日、道三流斎藤氏初代当主だった「美濃の蝮」こと斎藤道三が嫡男の斎藤義龍の軍に敗れ死去。この2年前に道三は家臣たちから引退を迫られ義龍に家督を譲っていました。他の戦国大名のような画期的な政策が打てない道三を家臣たちが見限ったから、とか。

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