
新歴史観ブックス
2022年7月12日読了時間: 1分
7月12日は何があった日?
1917年の今日、北京政府軍が北京に入城。清朝皇帝・宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位を宣言しました。溥儀は当時11歳でした。退位後は清室を優待する条件により7年後の北京政変まで紫禁城に住みました。その後、溥儀は日本軍が建国した大満洲帝国の皇帝に即位。

1917年の今日、北京政府軍が北京に入城。清朝皇帝・宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位を宣言しました。溥儀は当時11歳でした。退位後は清室を優待する条件により7年後の北京政変まで紫禁城に住みました。その後、溥儀は日本軍が建国した大満洲帝国の皇帝に即位。

1584年の今日、スペインからのオランダ独立の中心人物であり、ネーデルラント連邦共和国の事実上の初代君主であるウィレム1世が暗殺されました。3発の銃弾を浴びたウィレムは「神よ、わが魂と愚か者たちにお慈悲を」との言葉を残して倒れたと伝えられています。

1333年(元弘3年)の今日、鎌倉幕府への倒幕軍に対して先鋒隊を率いた最後の執権・北条守時が自害しました。実権は元執権である北条高時が握っており、守時は足利高氏と親戚関係にあった為、立場を明確にすべく自ら先鋒になったうえ、退却せずに自害を選んだとか。享年39歳。

1797年の今日、イタリア方面軍の司令官だったナポレオン・ボナパルトが占領したイタリア北部を『チザルピーナ共和国』として建国しました。その後ナポレオンが大統領となり『イタリア共和国』と改称。統一された国家名として初めて『イタリア』の名が使用されました。

1900年の今日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとボヘミアの貴族ゾフィーが結婚しました。この14年後の同じ日にサラエボを訪問中った夫妻はセルビア人によって暗殺されました。二人の死が第一次世界大戦勃発のきっかけに。

1947年の今日、『アンネの日記』が出版されました。アンネ・フランクを含む8人のユダヤ人が隠れ家に潜みナチス・ドイツのゲシュタポに捕まるまでの約2年間を記述したもの。アンネの死後、8人の中で唯一生き残った父オットー・フランクによって出版されました。

1757年 の今日、インド・ベンガル地方の村プラッシーにおいてイギリス東インド会社の軍が、同地を統治するムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍を破りました。事実上イギリスのインド支配が始まりました。ベンガルの詩人は「インドにとって永劫に続く闇夜」と。

1582年(天正10年)の今日、魚津城を守っていた上杉家の家臣・中条景泰が柴田勝家率いる織田軍に攻められ、切腹し開城しました。しかし、この一日前に信長は本能寺にて死亡。勝利にわいていた織田軍は四散し、空城になった魚津城を上杉軍が奪還。

1565年(永禄8年)の今日、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らが室町幕府13代将軍である足利義輝を襲撃し殺害しました。永禄の変。剣豪の塚原卜伝に兵法を学んだ義輝は約百人の家臣と共に自ら奮戦しましたが約一万人の敵兵を前に自害しました。

1583年(天正11年)の今日、秀吉軍に居城である北ノ庄城を包囲された柴田勝家と妻のお市の方、その他80名余が自害しました。勝家から退去を勧められた市は共に自決することを選び、三人の娘(茶々、初、江)を秀吉に託すことに。秀吉の側室になった茶々は「淀殿」と呼ばれ、

1587年(天正15年)の今日、九州平定間近だった島津義久が豊臣秀吉に降伏しました。義久の降伏後、島津四兄弟のうち次弟の義弘と三弟の歳久は城に籠り抵抗を続け、義弘の降伏後も歳久だけは秀吉に反抗し続け、結局、義久は歳久を粛正することに。歳久は自害しました。

1560年(永禄3年)の今日、織田信長が桶狭間山附近で今川義元を討ち取りました。指を噛み千切られながらも義元の首を討ち取った毛利新介は「本能寺の変」で二条新御所にて闘死するまで信長の側近として重用されました。

1900年の今日、義和団の乱鎮圧のため、8か国連合軍が北京へ侵攻を開始しました。義和団は清帝国が列強国に侵食された状況を憂う『義和拳教』に率いられた運動組織。列強国を排除したい清国政府は裏で義和団を支持していましたが8か国連合軍により乱は鎮圧されました。

452年の今日、アッティラ率いるフン族がイタリアに侵入しました。都市を陥れたアッティラでしたが教皇レオ1世の説得によって撤退。一説にはフン族陣営で疫病と飢餓が発生し侵攻を中断せざるを得なかったとか。アッティラは現在のロシア、東欧、ドイツを結ぶ大帝国を樹立。

1221年(承久3年)の今日、後鳥羽上皇が倒幕のため千七百騎の兵を挙げました。 北日本は鎌倉幕府、西日本は朝廷が支配する二元統治下、天皇家の庶流である源氏が将軍だった間は良好な関係を築いていた上皇でしたが(自称)平氏である北条氏が実権を握るや武力行使に。

1570年(元亀元年)の今日、越前の朝倉義景討伐のため進軍していた織田信長が同盟関係にあった近江の浅井長政(画像)の裏切りにより撤退しました。裏切った理由については現在も定かになっておらず、報告を聞いた際、信長は義弟でもある長政の裏切りを信じなかったそうです。

1569年(永禄12年)の今日、徳川軍に包囲された今川氏真が降伏し、戦国大名としての今川氏が滅亡しました。「海道一の弓取り」と呼ばれた父・今川義元の死から9年後のこと。その後、氏真は北条氏に庇護された後、徳川氏へと。今川氏は徳川幕府に仕え、明治まで続きました。

1453年の今日、オスマン帝国のメフメト2世が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させました。西ローマ帝国に遅れること約千年、古代から存続してきた『ローマ』は滅亡しました。メフメトはこの都市1つの征服によって「征服王」と呼ばれるようになります。

1556年(弘治2年)の今日、道三流斎藤氏初代当主だった「美濃の蝮」こと斎藤道三が嫡男の斎藤義龍の軍に敗れ死去。この2年前に道三は家臣たちから引退を迫られ義龍に家督を譲っていました。他の戦国大名のような画期的な政策が打てない道三を家臣たちが見限ったから、とか。

1905年(明治38年)の今日、海軍大将・東郷平八郎が率いる日本艦隊とロシア海軍バルチック艦隊との日本海海戦が勃発。ロシア側はバルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させ、一方、日本は小艦艇数隻のみの喪失に留めるという海戦史上まれにみる勝利をあげました。