
新歴史観ブックス
2023年5月3日読了時間: 1分
5月2日は何があった日?
1864年(元治元年3月27日)の今日、水戸藩の尊王攘夷派である『天狗党』63人が筑波山で蜂起しました。頭領格になった藤田小四郎は尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた藤田東湖の息子で、22歳ながら各地を遊説し軍用金を集め蜂起を実現しましたが約一年後に処刑されています。

1864年(元治元年3月27日)の今日、水戸藩の尊王攘夷派である『天狗党』63人が筑波山で蜂起しました。頭領格になった藤田小四郎は尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた藤田東湖の息子で、22歳ながら各地を遊説し軍用金を集め蜂起を実現しましたが約一年後に処刑されています。

1861年(文久元年)の今日、トーマス・ブレーク・グラバーが長崎に『グラバー商会』を設立しました。武器や弾薬を販売し坂本龍馬の亀山社中とも取引をしたことで有名。維新後は三菱財閥の相談役になり、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築きました。

1854年(嘉永7年3月27日)の今日、吉田松陰が条約締結の為に再来日したペリーの船に乗りこみアメリカへの密航を試みました。結果はペリーに拒否され失敗。小舟が流されていた為に自首し牢屋敷に投獄されました。死罪になる可能性がありましたが助命され、国許蟄居に。

1866年(慶応2年) の今日、京都の寺田屋に投宿していた坂本龍馬と護衛役の長府藩士・三吉慎蔵が伏見奉行の襲撃を受けました。両手指を斬られた龍馬は静養のため恋人のお龍を伴って薩摩の霧島温泉で過ごすことに。この旅は日本最初の新婚旅行とされています。

1867年(慶応3年)の今日、新撰組が組から離れ御陵衛士を結成した伊東甲子太郎(画像)らを暗殺しました。この油小路事件の一ヶ月後、御陵衛士の生き残りにより狙撃され右肩に重傷を負った近藤勇は以後、以前のように剣を振ることができなくなりました。

1859年( 安政6年)の今日、 伝馬町牢屋敷で吉田松陰の斬首刑が執行されました。享年29歳。弾圧を進めた井伊直弼の下、実行役となった老中・間部詮勝の暗殺計画を企てた為。師である松陰が死んだことで高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の塾生たちの尊王攘夷は一気に活発に。

1855年(安政2年)の今日、関東地方南部でM7クラスの地震が発生しました。安政江戸地震。埋立ての隅田川東岸の深川や浅草の吉原での被害が大きく、一万人あまりの死者が出たと考えられています。黒船の来航、幕府の弾圧、疫病の蔓延、それに地震と、波乱だらけの幕末です。

1862年(文久2年)の今日、生麦村で薩摩藩の指導者である島津久光の行列に馬に乗り割って入った英国人を供回りの藩士が殺傷しました。1名が死亡、2名が重傷。当時の米国のニューヨーク・タイムズ誌は被害者である英国人の非礼を批判し、日本の儀礼に深い理解を示しています。

1867年(慶応3年)の今日、土佐藩の中岡慎太郎が京都で倒幕浪士軍「陸援隊」を組織しました。薩摩藩との「薩土討幕の密約」に基づき、土佐藩の遊軍として結成。土佐藩の思惑では坂本龍馬が結成した海援隊と中岡の陸援隊を合併させ「翔天隊」を作るつもりだったとか。

1864年(元治元年)の今日、京都から追放されていた長州藩勢力(尊王攘夷派)が京都守護職の松平容保らの排除をすべく京都に攻め入りました。主戦場になった京都御所の門から「禁門の変」と呼ばれています。テロリズムは大規模な市街戦へと発展し約3万戸を焼失させました。

1867年(慶応3年) の今日、薩摩の西郷隆盛と大久保利通、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎(画像)らが薩土盟約を結びました。幕府からの平和的な政権移行を目指していた土佐藩に薩摩藩が同調したことで実現した盟約のはずが結局、足並みがそろわず、わずか2か月半で解消へ。

1853年(嘉永6年)の今日、アメリカ合衆国大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる艦隊4隻が浦賀湾に来航しました。マシュー・ペリーは蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めアメリカ国内では「蒸気船海軍の父」とたたえられ、海軍教育の先駆者。

1863年(文久3年)の今日、尊王攘夷を唱える公卿・姉小路公知が猿ヶ辻で何者かに斬殺されました。現場に残された太刀から薩摩藩士で「幕末の四大人斬り」の一人・田中新兵衛に容疑がかかりましたが京都町奉行所に連行された新兵衛は釈明せずに自刃。真犯人は今なお不明です。

1868年(慶応4年)の今日、幕府が明治政府軍に対して江戸城を無血開城しました。幕府軍の陸軍総裁・勝海舟は明治政府との交渉を前に、無血どころか焦土作戦の準備をしていたという説も。新門辰五郎ら町火消組、それに鳶職や博徒の親方に協力を求め計画を立てました。

1854年(嘉永7年)の今日、吉田松陰が弟子の金子重之輔と共に黒船に乗船しました。アメリカへの密航を願い出るもペリーに断られました。黒船に漕ぎ寄せた小船が流されてしまった為に下田奉行所に自首。伝馬町牢屋敷に投獄後、国許蟄居になりました。金子は翌年、獄中で病死。

1863年(文久3年)の今日、芹沢鴨や近藤勇ら24名が京都守護職である松平容保の配下に取立てられました。後の新選組。24名は三つの派閥に分かれていて、最終的には近藤勇率いる試衛館一派が他の二つの派閥の隊士を粛清し実権を握りました。

1863年(文久3年)の今日、倒幕派の志士により京都等持院に安置されていた室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出され三条河原に晒されました。この事件以後、京都守護職の松平容保「画像)は壬生浪士による取締りを強化するように。

1868年(慶応4年)の今日、和泉国の堺港で市内警備をしていた土佐藩士29名がフランス人水兵を殺傷しました。明治政府はフランスから要求された「隊長以下二十人の処罰」に従い、警備隊長4名と、隊士の中からくじ引きで決められた16名を死刑に。死亡したフランス水兵は11名。

1868年(慶応4年)の今日、尾張藩の元藩主で新政府の議定に就任していた徳川慶勝(画像)の命令により藩内において「佐幕派」とされた家臣14名が処刑されました。尾張徳川家は御三家筆頭。慶勝の弟には最後まで幕府側として戦った会津藩の藩主・松平容保がいます。

1868年(慶応4年)の今日、戊辰戦争において幕府方として戦っていた京都見廻組の隊士・佐々木只三郎が戦死しました。享年36歳。只三郎は、結果的に新選組の前身となる浪士組の結成を画策した清河八郎を暗殺。また、京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺した実行犯とも。

