
新歴史観ブックス
11月23日読了時間: 1分
11月23日は何があった日?
1555年(弘治元年閏10月10日)の今日、今川氏家臣であり臨済宗の禅僧だった太原雪斎が死去しました。享年60。跡目騒動に勝利し今川義元(画像)を今川家当主に。今川家全盛期を築いたうえ甲相駿三国同盟の締結を実現。彼の死が今川家衰退の始まりという見方もあります。

1555年(弘治元年閏10月10日)の今日、今川氏家臣であり臨済宗の禅僧だった太原雪斎が死去しました。享年60。跡目騒動に勝利し今川義元(画像)を今川家当主に。今川家全盛期を築いたうえ甲相駿三国同盟の締結を実現。彼の死が今川家衰退の始まりという見方もあります。

1570年(元亀元年9月20日)の今日、織田氏の家臣で美濃金山城主だった森可成(画像)が浅井・朝倉連合軍との戦闘で討死しました。死後、信長は功労者である森可成の息子を取り立てました。その息子が「鬼武蔵」こと森長可や「蘭丸」こと森成利など。

1561年(永禄4年)の今日、武田信玄と上杉謙信の軍が八幡原において戦闘を開始しました。数度にわたって行われた「川中島の戦い」の中で唯一大規模な戦いになったこの「八幡原の戦い」。武田家の副将である武田信繁や山本勘助など多くの名将が討死しました。

1455年(康正元年8月27日) の今日、日野富子が室町幕府第八代将軍・足利義政の正室になりました。将軍の正室に対する呼称は「御台」が通常ですが、夫婦喧嘩により別居した時には室町通りの御所を出て行った夫・義政に代わって「室町殿」と呼称されたという記録があります。

1373年(文中2年/応安6年8月25日)の今日、「婆娑羅大名」として知られた佐々木道誉が死去しました。享年78。鎌倉幕府倒幕から足利尊氏に従い、その息子で2代将軍の義詮の政権では執事(後の管領)の任免権を握り、事実上の幕府の最高実力者として君臨しました。

1563年(永禄6年8月4日)の今日、安芸毛利氏の当主・毛利隆元(画像)が急死しました。当主を引退した後も実権を握っていた父・毛利元就は家督を隆元の嫡男・幸鶴丸(後の毛利輝元)に継がせ、自分の死後は輝元の補佐を次男の吉川元春と三男の小早川隆景に託しました。

1441年(嘉吉元年6月24日)の今日、守護大名の赤松満祐が室町幕府将軍・足利義教(画像)を自邸に招いて暗殺しました。 足利将軍家の権威を復活させる為に有力な大名家の家督相続に積極的に介入した義教。粛清されることを恐れた満祐は先手を打って義教を暗殺したとか。

1457年(長禄元年4月8日) の今日、太田道灌が武蔵国荏原郡桜田郷に江戸城を築城しました。 道灌(画像)が仕える扇谷上杉氏は関東管領職を独占する山内上杉氏を補佐する立場。道灌の活躍によって山内を上回る勢力に成長した扇谷でしたが道灌の能力を恐れるあまり道灌を暗殺。

1336年(延元元年2月15日)の今日、備後の鞆にいた足利尊氏の元に光厳上皇より新田義貞追討の院宣が下されました。新田軍に敗れ九州での立て直しを図っていた尊氏は院宣を得たことで西国の武士を傘下におさめました。ちなみに、備後の鞆は足利義昭が最後に幕府を開いた地です。

1559年(永禄2年2月2日)の今日、織田信長が約500名の軍勢を引き連れて上洛。室町幕府の13代将軍・足利義輝(画像)に謁見しました。 上洛の目的は尾張の統治者として幕府に認めてもらうこと、または足利将軍家を頂点とする武家秩序の実態をその目で確認するためだったとか。

1395年(応永元年12月17日)の今日、朝廷より足利義持に将軍宣下。父の義満(画像)は大御所として実権を握り続けました。 邸宅を北小路室町へ移したことで義満は「室町殿」と呼ばれ、以後その呼び名が足利将軍家当主の呼称に。「室町幕府」や「室町時代」の由来にも。

1367年(貞治6年12月7日)の今日、室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮が死去。享年38。足利尊氏の息子で足利義満の父親であり初代鎌倉公方の足利基氏の兄。太平記では口車に乗りやすく酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれていますが、内政や軍略で功績を残しています。

1352年(観応3年8月17日) の今日、光厳上皇の皇子・弥仁王が践祚し後光厳天皇(画像)に。 治天の君になったのは弥仁王の祖母の西園寺寧子。三代の天皇の国母として君臨。女性として治天の君になったのも非皇室出身者として治天の君になったのも日本史上で寧子だけ。

1338年(延元3年/暦応元年)の今日、和泉国の石津において南朝軍と高師直率いる室町幕府軍が戦い、南朝軍の大将軍・北畠顕家ら有力武将が戦死。南朝軍の主力は壊滅しました。画像はこれまで足利尊氏像とされてきましたが最近では高師直とする説も。 ◇口冊司作品はこちら>>...

1571年(元亀2年5月16日)の今日、織田信長が自ら5万の兵を率いて一向一揆が拠点にする伊勢長島を攻撃。軍を退いたところを奇襲を受け織田軍の将・氏家卜全ら多くの戦死者を出して敗退しました。織田軍は長島の一向一揆を三度攻め、多くの犠牲者を出しながらも勝利します。...

1434年(永享6年)の今日、千也茶丸(第7代将軍・足利義勝)が誕生しました。父親である第6代将軍の足利義教が暗殺された為、まだ9歳の若さの千也茶丸が将軍に。しかも彼は在任わずか8ヶ月で死亡しました。死因は病死、落馬、暗殺など諸説あります。 ◇口冊司作品はこちら>>...

1571年(元亀2年2月11日) の今日、鹿島新当流開祖・塚原卜伝が死去しました。享年83。諸国を歴訪した卜伝は将軍の足利義輝や足利義昭、伊勢国司の北畠具教や武田家家臣の山本勘助にも剣術を指南したという説も。画像は宮本武蔵との対戦(架空らしい)を描いたものです。

1555年(弘治元年閏10月10日)の今日、今川氏の家臣である太原雪斎が死去しました。享年60。今川義元を当主にし甲斐武田氏や相模北条氏との甲相駿三国同盟を作り上げ、今川氏の黄金時代を築いた立役者。「黒衣の宰相」と呼ばれた彼の死が今川氏凋落の始まりとも。

1567年(永禄10年10月19日)の今日、甲斐の戦国大名・武田信玄の嫡男だった武田義信が幽閉された東光寺で自害しました。廃嫡と幽閉の理由は父である信玄への謀反の疑い。信玄は武田家の先代当主である実の父を追放したうえ後継者だった息子を自害に追い込みました。

1551年(天文20年9月1日)の今日、大内義隆が家臣の陶隆房(画像)の謀反により自害させられました。大寧寺の変。この事件で当時、西国随一の戦国大名と言われた大内氏は事実上滅亡。西国の勢力図は大きく変化し、謀反に成功した陶隆房と、それに協力した毛利元就が台頭。

