
新歴史観ブックス
2022年8月6日読了時間: 1分
8月6日は何があった日?
1585年(天正13年)の今日、羽柴秀吉が摂関家の近衛前久の猶子として『関白』の位に就きました。関白には藤原氏の嫡流である五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)でなければならない為の養子縁組。翌年、秀吉は天皇から六番目の摂関家として「豊臣」姓を賜りました。

1585年(天正13年)の今日、羽柴秀吉が摂関家の近衛前久の猶子として『関白』の位に就きました。関白には藤原氏の嫡流である五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)でなければならない為の養子縁組。翌年、秀吉は天皇から六番目の摂関家として「豊臣」姓を賜りました。

1582年(天正10年)の今日、魚津城を守っていた上杉家の家臣・中条景泰が柴田勝家率いる織田軍に攻められ、切腹し開城しました。しかし、この一日前に信長は本能寺にて死亡。勝利にわいていた織田軍は四散し、空城になった魚津城を上杉軍が奪還。

1582年(天正10年6月2日)の今日、明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃しました。織田信長は自害したといわれていますが死体は見つからず、不安になる光秀を見るに見かねた家臣の斎藤利三が「信長が炎上する建物奥に入っていくのを見た」と報告したそうです。

1583年(天正11年)の今日、秀吉軍に居城である北ノ庄城を包囲された柴田勝家と妻のお市の方、その他80名余が自害しました。勝家から退去を勧められた市は共に自決することを選び、三人の娘(茶々、初、江)を秀吉に託すことに。秀吉の側室になった茶々は「淀殿」と呼ばれ、

1587年(天正15年)の今日、九州平定間近だった島津義久が豊臣秀吉に降伏しました。義久の降伏後、島津四兄弟のうち次弟の義弘と三弟の歳久は城に籠り抵抗を続け、義弘の降伏後も歳久だけは秀吉に反抗し続け、結局、義久は歳久を粛正することに。歳久は自害しました。

1600年(慶長5年)の今日、ウィリアム・アダムス(日本名・三浦 按針)やヤン・ヨーステン(同・耶揚子)らが乗船した船が九州地方に漂着しました。イエズス会の宣教師たちは彼らを処刑するよう要求。二人と面会した徳川家康はこれを黙殺し彼らを江戸に招きました。

1599年(慶長4年)の今日、豊臣政権において五大老の一人だった前田利家が死去しました。前年に豊臣秀吉が病没した後、野心を抱く徳川家康に対抗できる唯一の大名と見られていました。家康が病気見舞いに来た時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたとか。

1582年(天正10年)の今日、武田家の残党を匿った恵林寺を織田軍が焼き討ちにしました。恵林寺と共に焼死したを大導師・快川紹喜が残した辞世の句が有名です。「安禅必ずしも山水をもちひず心頭滅却せば火も自づから涼し」

1591年(天正19年)の今日、豊臣秀吉の命令により千利休が聚楽第において切腹しました。享年70。切腹にあたり弟子の大名たちが利休を奪還する恐れがあった為、上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだとか。死後、利休の首は一条戻橋に梟首されました。切腹の原因は諸説あります。

1578年(天正6年3月13日)の今日、上杉謙信が死去しました。死因は脳溢血と見られています。死後、養子である二人の息子が跡目争い「御館の乱」を起こし、敗れた上杉景虎が翌年4月19日(天正7年3月24日)に。家督を継いだ上杉景勝が1623年4月19日(元和9年3月20日) に死去

1587年(天正15年)の今日、豊臣秀吉が九州の島津氏討伐の為、自ら2万5千の軍を率いて大坂城を出発しました。九州平定まであと一歩だった島津義久(画像)でしたが豊臣軍の侵攻を察知し九州北部を放棄。薩摩・大隅・日向の3か国の守りを固める方針に変更しました。

1582年(天正10年)の今日、甲州征伐を進める織田軍の追討から逃れていた甲斐武田家の当主代行・武田勝頼と彼の息子で信玄から次の当主として指名された信勝が天目山の麓で自害しました。まだ十五歳だった信勝の死により新羅三郎義光から続く甲斐武田氏の嫡流は途絶えました。

1582年(天正10年)の今日、織田・徳川勢による甲州征伐後の残党狩りで捕らえられ武田信廉が殺害されました。号の「逍遙軒」で知られる信廉は武田信玄の同母弟。武田二十四将の一人に数えられ、信玄の影武者を務めました。甲州征伐では大した抵抗もせずに城を放棄しました。

1581年(天正9年)の今日、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが織田信長に謁見しました。信長はヴァリニャーノの従者であるアフリカ人男性のことを気に入り家臣として召し抱えました。「弥助」と名付けられた彼は「本能寺の変」まで信長に近侍しました。

1591年(天正19年)の今日、前年に東北地方で発生した一揆を扇動した嫌疑で伊達政宗が豊臣秀吉に召喚されました。上洛にあたり政宗は家臣に白装束を着させたうえ黄金の十字架を担がせました。政宗は秀吉が出した私戦を禁じる法令にも従わず、小田原征伐にも遅参。

1585年(天正13年)の今日、伊達政宗の父で戦国大名だった伊達輝宗が死去しました。二本松城主の畠山義継に誘拐されそうになった輝宗は国境付近に来ると救助しようと追って来た家臣たちに自分を撃つよう指示。家臣たちは一斉射撃を行い、輝宗と義継を含む二本松勢全員が死亡。

1587年(天正15年)の今日、北野天満宮で豊臣秀吉主催の茶会が行われました。同年、九州平定を終えた秀吉は京都の朝廷や民衆に権威を示すため大規模な茶会を開催。茶湯が好きであれば身分を問わず参加を許し、茶湯の心得がある者は秀吉の前で茶を立てるよう命じました。

1600年(慶長5年)の今日、反徳川軍(西軍)約一万五千人の軍勢が徳川軍に味方する京極高次(画像)の近江大津城への攻城を開始しました。城に籠る約三千人。攻城軍の指揮官には立花宗茂もいましたが京極軍は耐え抜きました。西軍約一万五千人は関ヶ原の戦いに参戦できず。

1600年(慶長5年)の今日、伏見城の戦いが始まりました。関ヶ原の戦いの前哨戦とされるこの戦いは上杉討伐に出兵した徳川家康が不在となった伏見城を石田三成軍が奪還しようとしたもの。守城・鳥居元忠が率いる約2千人は西軍4万に対して徹底抗戦し西軍の出鼻をくじきました。

1590年(天正18年)の今日、豊臣秀吉が徳川家康に関八州への国替えを命じました。関八州を支配した北条氏を降伏させたことで秀吉は家康に関東の安定と奥羽の抑えを期待したようですが、家康はそれまでの領地である甲斐・南信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を没収されました。