
新歴史観ブックス
2023年8月26日読了時間: 1分
8月26日は何があった日?
1600年(慶長5年7月18日)の今日、関ヶ原の戦いの前哨戦『伏見城の戦い』が始まりました。敵対する上杉景勝を攻めるべく越後へと向かう徳川家康から伏見城の留守を任された鳥居元忠(画像)は西軍4万の兵士に包囲されながら10日以上も耐え、最後は全滅しました。

1600年(慶長5年7月18日)の今日、関ヶ原の戦いの前哨戦『伏見城の戦い』が始まりました。敵対する上杉景勝を攻めるべく越後へと向かう徳川家康から伏見城の留守を任された鳥居元忠(画像)は西軍4万の兵士に包囲されながら10日以上も耐え、最後は全滅しました。

1573年(天正元年7月18日)の今日、宇治・槇島城に籠城していた足利義昭が織田信長に降伏し京から追放されました。室町幕府は事実上滅亡したものの義昭は征夷大将軍を解任されることなく、毛利家の支配地である現在の広島県にあった鞆の浦に亡命し「鞆幕府」を樹立しました。

1590年(天正18年7月5日)の今日、後北条家の当主・北条氏直(画像)が豊臣秀吉に降伏し小田原城は開城しました。高野山に追放された氏直でしたが翌年、赦免され1万石を与えられて豊臣政権の大名になったものの、三か月もしないうちに病死しました。享年30歳でした。

1589年(天正17年6月16日)の今日、越後を拠点とする戦国大名・上杉景勝が豊臣秀吉から許しを得て佐渡へと侵攻。鎌倉時代から佐渡を支配した佐渡本間氏の居城である羽茂城は落城し同地は上杉領になりました。佐渡金山から本格的に金が産出されるのは江戸時代以降になります。...

1588年(天正16年閏5月14日)の今日、佐々成政が切腹しました。織田家の中堅幹部として豊臣政権が樹立された後も秀吉に反抗を続けた成政ですが最後は屈し、さらに領地政策を問題を理由に切腹。成政は短刀を横一文字に引き、自ら掴み出した臓腑を天井に投げつけたそうな。

1582年(天正10年6月3日)の今日、富山の魚津城を守っていた上杉方の13人の将が織田軍に降伏し切腹。北陸の制圧を達成した柴田勝家(画像)率いる北陸方面軍団が勝利に沸く一方、西の岡山では備中高松城を包囲する羽柴秀吉の元に前日に起きた本能寺での凶報が届きました。

1582年(天正10年6月2日) の今日、明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃。その後、二条新御所で明智勢を待ち構える信長の息子・信忠を攻めました。信長は討死、信忠は自害したとされていますが、二人の首や遺体はとうとう発見されませんでしたとさ。

1583年(天正11年4月22日)の今日、『賤ヶ岳の戦い』において柴田勝家軍の将として布陣した前田利家が羽柴秀吉に降伏しました。秀吉と内通していた利家は戦線を放棄。降伏後、勝家の居城攻めの先鋒を務め、戦後は本領安堵のうえ加賀国の二郡を秀吉から加増されたそうな。

1578年(天正6年3月13日)の今日、上杉謙信が死去しました。上洛を企図した遠征の準備中に城内の厠で倒れ昏睡状態に陥り、意識が戻らぬまま帰らぬ人に。死因は脳溢血であるという見方が強いものの定かになっていません。死後、上杉家では家督を巡って争いが起こりました。

1582年(天正10年)の今日、織田軍に追い詰められた田勝頼と信勝の父子ら武田一族が天目山にて自害しました。軍を率いた織田信忠に対して信長は「天下の儀も御与奪」と発言。天下人の地位を信忠に継承させることを内外に宣言しました。「本能寺の変」の約2か月前の話です。 ◇口冊司作品はこち

1581年(天正9年)の今日、イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが織田信長に謁見しました。ヴァリニャーノの従者として同席したアフリカ系男性が信長から請われ織田家の家臣に。『弥助』と名付けられた彼が本能寺にて信長の首を持ち去ったという説も。

1591年(天正19年)の今日、『葛西大崎一揆』を扇動した嫌疑で伊達政宗が上洛し喚問を受けました。現在の宮城県北部から岩手県に相当する葛西大崎は豊臣秀吉による奥州仕置がなされる直前まで政宗が事実上支配していた地域。豊臣政権への叛旗を目論んだ政宗でしたが失敗。

1610年(慶長15年)の今日、長谷川等伯が死去しました。享年71歳。安土桃山時代。能登の無名の仏画師だった等伯は京に出ると、千利休や豊臣秀吉らに見出され、当時、画壇のトップにいた狩野永徳が率いる狩野派を脅かすほどの絵師へと成長しました。

1582年(天正10年)の今日、かつて織田家の重臣で追放になっていた佐久間信盛が死去しました。信盛は約30年もの間、織田家の筆頭家老として家臣団を率いましたが信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ追放されました。信長が本能寺で急死するのはこの約5ヶ月後。

1591年(天正19年)の今日、豊臣秀長が死去しました。兄である秀吉に対して唯一異を唱えることができる存在であり、徳川家康など外様大名との調整役として豊臣政権に欠かせない人物だった彼を失ったことが豊臣時代の終わりを早めた最大の要因とも。

1587年(天正15年10月1日)の今日、北野天満宮で豊臣秀吉主催の茶会北野大茶湯が開催されました。天下人が「茶の心得がある者なら身分問わず参加すべし」という前代未聞のイベントは10日間行われる予定でしたが熊本で一揆が起こったことで一日で終わりとなりました。

1600年(慶長5年)の今日、関ヶ原において徳川家康率いる東軍が毛利輝元を総大将とする西軍に勝利しました。豊臣氏は政権の地位を失い、勝者として強大な権力を手に入れた家康はこの3年後、『源氏長者』と『征夷大将軍』を地位を獲得し江戸幕府が開かれました。

1600年(慶長5年)の今日、東軍(徳川派)の大名・京極高次(画像)の居城である大津城を立花宗茂ら1万5千の西軍が攻撃しました。大津城の戦い。大津城の陥落は関ヶ原での本戦の当日。立花宗茂ら1万5千は本戦に参加できずに西軍は敗北。大津城を落城させた戦果は無意味に。

1579年(天正6年)の今日、織田信長の次男である織田信雄が伊賀に侵攻するも同地を支配していた伊賀国人衆に敗退しました。第一次天正伊賀の乱。父に相談せずに侵攻した信雄。無断行動と敗戦の報せに激怒した信長は彼に「親子の縁を切る」と書いた手紙を送ったとか。

1600年(慶長5年)の今日、徳川家康の家臣・鳥居元忠が守城を務める伏見城が石田三成率いる西軍の攻撃により陥落しました。西軍は伏見城を落城させるのに10日以上もの期間をかけてしまったことで「関ヶ原の戦い」に向けた展開が大きく遅れることに。