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10月6日は何があった日?

1342年(康永元年9月6日)の今日、美濃の婆娑羅大名・土岐頼遠が通りかかった光厳上皇の乗る牛車に対して罵ったうえ矢を射ました。 激怒した足利直義によって頼遠は逮捕され斬首されましたが、その軍才を惜しむ者は多く、処刑される直前まで助命嘆願の声が絶えませんでした。

9月12日は何があった日?

1373年(文中2年/応安6年8月25日)の今日、「婆娑羅大名」として知られた佐々木道誉が死去しました。享年78。鎌倉幕府倒幕から足利尊氏に従い、その息子で2代将軍の義詮の政権では執事(後の管領)の任免権を握り、事実上の幕府の最高実力者として君臨しました。

8月29日は何があった日?

1359年(延文4年/正平14年8月6日)の今日、筑後川を境にして南朝・征西将軍府と北朝・室町幕府の両軍合わせて約10万が激突しました。 両軍合わせて5,400余人が討死したこの「筑後川の戦い」は「関ヶ原の戦い」と「川中島の戦い」と共に「日本三大合戦」に数えられています。

8月27日は何があった日?

1394年(応永元年8月1日)の今日、第98代天皇および南朝第3代天皇の長慶天皇が崩御しました。南朝関係史料の少なさから明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下した際も在位認定されないままでしたが、大正時代に宮内省の調査が行われ、ようやく長慶天皇の在位が公認されました。

4月17日は何があった日?

1332年(元弘2年3月22日)の今日、 光厳天皇の即位礼が執り行われました。 明治時代までは歴代天皇の一人とされた光厳天皇でしたが偽物の三種の神器を継承したとする『大日本史』を根拠として南朝が正統であると判断されたことで歴代天皇と区別され北朝初代天皇になりました。

3月28日は何があった日?

1336年(延元元年2月15日)の今日、備後の鞆にいた足利尊氏の元に光厳上皇より新田義貞追討の院宣が下されました。新田軍に敗れ九州での立て直しを図っていた尊氏は院宣を得たことで西国の武士を傘下におさめました。ちなみに、備後の鞆は足利義昭が最後に幕府を開いた地です。

2月28日は何があった日?

1332年(正慶元年2月2日)の今日、後醍醐天皇の倒幕計画に呼応した楠木正成が鎌倉幕府軍に奪われていた赤坂城に攻撃を開始しました。 楠木軍は赤坂城を奪還。さらに鎌倉幕府方の湯浅宗藤を帰順させることに成功したことで楠木軍は和泉と河内の両国を瞬く間に制圧しました。

12月28日は何があった日?

1367年(貞治6年12月7日)の今日、室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮が死去。享年38。足利尊氏の息子で足利義満の父親であり初代鎌倉公方の足利基氏の兄。太平記では口車に乗りやすく酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれていますが、内政や軍略で功績を残しています。

11月19日は何があった日?

1392年(明徳3年/元中9年閏10月5日)の今日、南朝と北朝(室町幕府)との間で和議が成立。皇位は両統迭立として南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還し北朝の後小松天皇に三種の神器を渡しました。この日をもって約60年続いた南北朝時代が終焉しました。

6月10日は何があった日?

1338年(延元3年/暦応元年)の今日、和泉国の石津において南朝軍と高師直率いる室町幕府軍が戦い、南朝軍の大将軍・北畠顕家ら有力武将が戦死。南朝軍の主力は壊滅しました。画像はこれまで足利尊氏像とされてきましたが最近では高師直とする説も。 ◇口冊司作品はこちら>>...

6月10日は何があった日?

1338年(延元3年/暦応元年) の今日、石津にて南朝方の北畠顕家が北朝方の高師直に敗れ戦死しました。後醍醐天皇から才覚を認められ12歳という史上最年少の若さで参議に任じられた顕家は18歳の時には鎮守府将軍として足利尊氏と戦い、尊氏を九州へと追いやりました。

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